悪の存在

「悪の存在について、私たち人間はどう考えたらよいのだろうか。」実存することの深淵においては、この問いが、耐えがたいほどの痛みのうちで問われることになりますが、ここでは、次のようなテーゼを提出しておくことにしたいと思います。
 弁神論の完結不可能性テーゼ
:人間には、悪の存在について、神の存在に照らしつつ合理的に説明しつくすことはできない。
マルブランシュやライプニッツといった17世紀合理主義の哲学者たちは、神の計画の合理性にもとづいて悪の存在を説明しようと試みました。この説明にしたがうならば、悪が存在しなければならない必然性も人間にとって理解しうるものになるはずなのですが、おそらくは、この試みはどこかで挫折せずにはいられないのではないか。
それというのも、この世界に癒しがたい傷が存在するというのは、人間には否定しがたいことのように思われるからです。
ひょっとすると、神の側から見るならば、合理性は貫徹されているのかもしれません。けれども、人間の側から見るならば、どうしても納得することが難しいように見える出来事は、やはり全く存在しないとはいえないのではないか。
弁神論の完結不可能性テーゼは、人間の側から世界の完全な善性を考えることの不可能性を主張しています。このテーゼは、この世界に癒しがたい傷が存在するという事実に、信仰者の目を向けさせようとします。

しかし、仮にこのテーゼが正しいものであるとしても、信じることそのものが不可能になるわけではないことには、注意しておくべきかもしれません。
完結不可能性テーゼの系
:人間がもしも神を信じるとするならば、人間には悪の存在を合理的に理解しつくすことができないという不可能性にもかかわらず、信じるのである。
人間にとって理解が不可能にみえるところで、それにもかかわらず、神の愛を信じること。おそらくは、この「それにもかかわらず」にしがみつづけていられるかどうかが、信仰者の実存が最も鋭く問われる地点であるといえるのではないか。
これは、わたしの知的な理解よりも、あなたの愛のうちに生きることの根底を見いだすという意味で、いわば形而上学的な愚かさのほうに自ら身を委ねることであるといえます。
しかし、この世のあらゆる賢さにも勝る愚かさというものも、ありうるのではないか。筆者は、人間の本当の強さは、愛にみちた知恵ある愚かさを求めつづけることのうちに宿るのではないかと考えています。
日本の教育は調教だ。反応の型を教え込む。型に合わせる事ができれば〇、合っていなければ✖という具合にキモチを刺激して行われる。型の正当性を問う事はほとんどない。いわば飼い主と家畜の関係。「文句があったら上位の立場になってから物を言え」と言われる。
日本は立場の上位が下位を調教する事で社会秩序が保たれるというたわごとを信仰する宗教団体なのである。日本の子供たちは可哀想だ。立場の牢獄で一生をすごす。日本人の人生は悲劇だ。
国家体制に身を置く者もそうではない組織人も同じような感覚で動いている。所属する組織のコマでしかなく、世界全体で自分がどんな働きをしているのかの自覚が希薄である。〇やエサを貰いたいだけの家畜だ。 パチンコ台に座った客であり、いずれにせよ人びとを堕落させるギャンブル店に貢献する。
この国家は間違いなく国民を堕落させている。反体制を気取る者も同じような組織づくりをしてしまう。日本人は文明を知らない。教育を知らない。