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天才画家

 昨日の記事で私は天才的な画家のレオナール藤田のことを次のように書きました。 ・・・彼は毀誉褒貶の多い波乱万丈の一生を過ごしました。その晩年にカトリックの洗礼を受け、ランス市のシャンパン製造会社のルネ・ラルー社長の支援で「平和の聖母礼拝堂」を建て、その壁画とステンドグラスの原画を心静かに描いたのです。昨日の展覧会では、これらの原画が多数展示してありました。 嗚呼、レオナール藤田嗣二も人生の終り頃は神を信仰し、平穏な老境だったのです。私は何故か深く安堵し、展覧会の会場を出ました。・・・ そして以下のような見出しで彼の生涯を簡略にご説明しました。 (1)藤田嗣二の出生、そして絵が不評でフランスに行くまで (2)藤田の「乳白色の肌」の絵画が高く評価されパリ画壇の寵児となる (3)日本への帰国し、陸軍美術協会理事長になり戦争画を描く 今日は何故、レオナーレ藤田が大日本帝国陸軍の要請で陸軍美術協会理事長になり数多くの戦争画を描いたのか、その原因を考えてみます。 そして敗戦後、日本人に排斥されフランスに逃れ、フランスに帰化し、カトリックの洗礼を受けたいきさつもご紹介いたします。 その前に一言書かせて下さい。 多くの日本人画家は印象派の真似をしますが、レオナーレ・フジタだけは真似をせず独創的な芸術を創ったのです。その作品は彼の思想や私生活とは関係なく、現在でも世界中で高く評価されています。 (4)陸軍軍医総監の父とフジタの軍国主義 彼の父は森 鷗外が就任していた陸軍軍医総監という役職についていました。それは陸軍中将相当の地位だったそうです。 兄の嗣雄の義父は、陸軍大将児玉源太郎です。また、義兄には陸軍軍医総監となった中村緑野がいました。 幼少のころから陸軍特有の偏狭な軍国主義の雰囲気の中で育ったのでしょう。藤田嗣二はもともと軍国主義者だったと仮定すると戦争画を描いた原因が理解できます。 その上、パリで絵描きと成功すればするほど藤田は内心では日本人としてのアイデンティティーを思い悩んでいたに相違ありません。 1932年に帰国し、陸軍から戦争画を描くことと陸軍美術協会理事長就任の要請を承諾したことは自然な成り行きです。 彼は間違いなく率先して戦争に協力したのです。 それでは彼の戦争画を見てみましょう。

 昨日もた~くさんのお客様が来て頂いて ほんとにありがとうございます。 まさか、このブログで新記事を書くなんて思ってもいなかったです。 そして、本ブログ『紫もよう』に逆輸入でこのブログの記事を持って行く事も 夢にも思ってなかったです。 でも、このまさかがあるから人生楽しいのでは。 このブログも、きっと喜んでいる事でしょうね。 してやったり~と。 ん??? って事は。。。 爆弾娘Aが喜んでいるって事??? あはは~ 実は。。。 ここんとこ、あの事件でAとはラインでせわしくメールしてるんですが。 事件以外のメールも、母としての責任としてメールしてるんです。 その中に、このブログを最初から読みなさいって やんわりとメールた所なんです。 そして、返って来たメールが 『ありがとう、懐かしいね。』 『うんうん、懐かしいやろ~。涙が出るわ。』 都合の悪いメールには、知らん顔のAだけど こんなじんわりとするメールには返信してくるんです。 そして、キャロママはこれを逃してなるものか!って留めを挿します。 『もう帰って来なさい。あなたの岐路だと思うよ。』 奇遇にも、昨日。。。 Aがお利口で頭も良かった頃の塾の先生に会ったんです。 何とも運命的なタイミング で。。。 「Aはどうしてますか?」って聞かれ。。。 返す言葉に戸惑いながらも 「元気ですよ。」って答えたキャロママ。 その後が続かず黙ってると 「頑張ってますか?」って聞かれ、再び返事に戸惑ってたけど この口が黙っておれず 「あれから悪くなって行きました。頭も行動も。」 つい言ってしまいました。 どうしても隠しておけなくて。 でも、先生はAの事をかばってくれて。 キャロママ、あれだけお世話になった先生に申し訳無くて申し訳無くて ほんとは、りっぱな大人になって頑張ってますよ~って 胸を張って言いたかったキャロママ。 でも、言えない歯痒さ 悔しさ 情けなさ 色んな感情でいっぱいになりました。 そして。。。 先生すみません。 心の中でそうつぶやいたキャロママでもありました。 でも、あの頃の先生にも偶然にも出会って 今がAを変えるチャンスなのかも?って再度確認しました。 〇〇の方にも言われました。 これが、Aさんが良い方向に行ってくれるきっかけになってくれれば良いですね~ キャロママ。。。 再度Aを更生させるべき努力をしてみます。 そして。。。 Aの心に届いてくれる事を切に願ってます。 A! 今日の記事も読むんだぞっ!