新しいサイクルが始まる日

本日は「マヤ暦」でいう下半期のスタート日。

つまり正月だ。

そんな節目の日にblogを更新します。

 

いや~6月30日から前回blogを更新した7月1日、そして2日3日と激動な日々でした。。

同志に昨日、「今岐路に立たされている」ってぼそっと言ったら、「毎日が岐路だよ!明日生きてられる保証もないからね。」とぐうの音もない事を言ってきた。

正にその通り。

インパクトやショックが大きい事象が起こっても、それはあくまでも日常の内の1日に過ぎず特別な事ではない。

 

が、しかしどうしてまたこんな分かりやすい形で私に釘を刺す出来事が立て続けに起こったのか‥

クレーム対応した相手に対して、尊厳そのものを受け止め相手をも自分という姿勢で丁寧に向き合って相手の心を見ようとすれば、こんな大事にはならなかったのだ。。

今一度、相手に寄り添った尊厳出発の関係性を作れているか、いずれは同志になるかけがえのない存在という認識で、人と出逢っているか。

 

改めて考えさせられた。

 

続きは次回blogで!

 

下半期のスタート!!!

前回blogは上半期のラストスパート時期だったけど、気付けばもう7月。

濃度密度が濃い1日1日を過ごしていると、こんなにも1日1日が早く過ぎていくものだろうか‥?

それにしても、早すぎる。。

そして本日は、下半期のスタートにしてはパンチが効きすぎた1日でした。

端的に言うと、今後の人生を占う日でした。

ずっとだましだましにしてきた事に関して、きちんと向き合い整理して再出発をする良い岐路に立たされた日です。

7月いっぱい掛けて、自分の心の声を聞き整理した上で次のステージへと進もうと思う。

 

という事で、前回のblogテーマは知覧特攻平和会館でしたので、そのテーマに戻ることにしましょう!!

 

弾丸での来館だったのと、同じ熱量で特攻隊とかを語れない同僚や後輩も一緒にむりやり連れて来てしまった手前、そこまでゆっくりは見学できず正味30分弱の見学。

それでも、スゴい密度の濃い時間を過ごしていた。

 

時間の長さではなく、今ここ感じること全てに集中して展示物を完全観察する意志を持っての見学。

知覧特攻平和会館の中全てが、当時の日本の未来を背負って立った若者達の遺志の結集場だった。

 

何故私達は、今この時代に生まれたのだろうか?と平和会館内の遺書展示スペースで1文字1文字読み進めながら思った。

この日本国が打ち出した奥の手とも言える特攻作戦で、日本はアメリカに相当な衝撃とダメージを与え恐れられた。

しかしながらその甲斐もむなしく、8月6日と9日にそれぞれ原子爆弾を落とされ日本は事実上の敗戦宣言を余儀なくされた。

そんな唯一の被爆国日本から発信していくメッセージの効果は絶大な影響力を持っていると思う。

 

正しい方向性にエネルギーを発信させ、今の日本をたたせる!!!との決意の元、次回にまた続くとさ。

6月上半期ラストスパート!!!②

 今記事書くのに改めて距離感調べたけど‥高速使ってちょうど1時間。

 

究極空港の近場でぬくぬくお昼食べたりのんびりしても良かったけど、私は有限の時間を持て余すことだけはしたくなかったのだ。

当時よく同僚を説得?して皆引き連れて行ったものだw

コイツ何者?とも思ったかも知れないけど。

高速代は予定外?経費だけど‥でもまあ私の熱意?が伝わったのかしら。

 

鹿児島空港のレンタカー屋から高速道路を走らせ、桜島を拝みながらの道中。

 

いずれは会社の同僚達とすら、大和魂や日本のルーツ、特攻隊など平等な同僚として話せる日が来ると良いな~と願いつつも、まだまだ道程は遠そう。。

でも、険しい道であればあるほど燃える!?w

 少しずつトレーニングを重ねていこうと思います!!

 

車内は私の運転で助手席には1つ歳上の後輩中国人女性の2人きり。

彼女とは、2ヶ月前くらいに初めましてだったけど、彼女の出勤初日から一緒にランチに行った仲。

うちの会社って良くも悪くもまったく介入しないから、新人の立場でもその暗黙のルールは一緒で、そんなに積極的に話し掛けていく人が居らず、私はちょくちょく様子見つつ絡んでみたところ、すっかりもう心を開いてくれたようだ。

私も実は似たような経験を前職でしてるけど、新人の立場で右も左も分からないのに何も提示してくれないのは余りにも辛すぎた‥実は初日から辞めたくなったんだw

その時優しく話し掛けてくれた人って今でも鮮明に覚えているもんね。

有難かったな。

立場チェンジすることって大事よね。

と回想してみた。

 

で、中国の人にとって、知覧の地って正直?しかないよね?

彼女にとってはどこに連れて行かれるんだろ?って感じだよね。

今1年くらい経ったけど、当時のこと聞いてみようかなw

そもそも覚えているかしら?

国境を超えて日本のルーツとか歴史を語れたらまた世界が広がりそうだけど、いまのところは他愛もない話止まり。

今後追々ね。まずは一見共通土台がある同士と思われる日本人攻略からだねw

日本人同士すら、関係構築難しい場合あるのに、国境を超えての関係構築はなおさら時間を要する場合が多いのかな。

 

あっ、いかんいかん。

まずは、中国人と日本人と線を引いて目で観てしまっている私が居るではないか( ゚д゚)ハッ!

分かりやすい境界線があるからまだ仕方ないか‥

とまあこれからもトレーニングを積んでいくので、こんな私を暖かく見守って下さい_(._.)_

 

久し振りの運転と、念願の場所へ行けるとの高揚感からドライブは好調に進み、鹿児島の雄大な自然に癒やされつつもあっという間に案内看板が見え目的地に着きました!

広大な駐車場に車を停め、いざ館内へ。

 

続きは次回blogで。

6月上半期ラストスパート!!!

思い返すと去年の6月1日は鹿児島出張で、早い便で鹿児島入りして仕事開始まで時間が合った為、ずっと気になっていた「知覧特攻平和会館」へ行けることになりました。

というか、自由な時間を獲たら絶対行こうと決めてました。

 

何で行きたかったというと、更に遡ること1年前の8月6日の広島原爆投下日に初めて靖国神社隣りの「遊就館」にひょんなことから行けたから。

その年、私には衝撃的な出逢いがありました。

今までは、日本の歴史をただ好き止まりでただの頭でっかち人間でした。

幸い背景をちょいちょい補足してくれる先生の元で小学校~高校時代まで学べ、断片的には覚えていた記憶もあったけど、それでも今までの私が作られてきた考え方や行動パターンの私のルーツと、日本の歴史をも繋げて考えられはしなかった。

今までは。

 

戦争史が特に興味あったのは、父の影響も大きいかも。

気付くと私の家にはゼロ戦や戦艦のプラモデルやフィギュアが所狭しと並ぶそんな家。

あまりない光景かもしれないが、私にとっては日常。

自然と興味を持ったのかもしれない。

父に何故そんなにコレクションしているかは未だに深く聞いたことはないんだけど、いずれは今の関係性を突破して聞きたいんだ。

これ密かな願い。

 

戦争史の深い部分について、深く語り合える仲間も居なかった。

でも去年遂に出逢ってしまったんだ。

語るしかない。

本当は思いっ切り語り合える仲間が欲しいとずっと願っていたのだ。

 

日本の歴史に触れることで自分のルーツを知れたらとの想いから初めて知覧特攻平和会館に足を運んだという訳だ。

知覧を訪れる前に映画「永遠の0」も観た。

その中で描写されたことも、まだまだ知らないことや初めて知ることも多かった。

戦争史は語れる人も高齢化してきており、またタブー視するような風潮もあり語りたくても語れない現状もあったかも知れないが、私は事実を正しく偏りなく知りたいと強く思った。

その一貫として、自分の目で確かめたいという想いが募った。

 

仕事場は鹿屋市で反対側の大隅半島側にも関わらず、まったく真逆の薩摩半島側の南九州市へといざレンタカーを走らせて向かう!!

 

続きは次回。

ここ最近思うこと③

そんな彼女のGAPに興味を持ち、色んな話をするようになったし晴れてひとり暮らしし始めた物件にも泊まらせて貰って近くのスーパー銭湯で語ったりもしたな♪

懐かしき青春の記憶^^

 

でね、久し振りに彼女のお父さんにも再会しまして、そこまでお話出来なかったけど何と私のこと覚えててくれて嬉しかった!!

どうやらいつかのソフトボールの試合の遠征時に応援に駆け付けてくれてて、交流したのさ。

その時の印象が深かったらしい。変わってたって言われた(笑)

どんな具合に変わっていたのか、今後お酒を交わしつつ語りたい(笑)

 

それでね、薄々は気付いていたんだけどお母さんの姿がない(T_T)

そう言えば‥数年前に久し振りに彼女と急遽会えた時に、つい先日お母さんが倒れたって言ってて‥その直後会って大変って話してたの思い出した。

その内容は、最後の手紙でも触れていたので鮮明に思い出した。

若くしてくも膜下出血で倒れ、幸い一命は取り留めたけど自分で身の回りのことが出来なくなってしまったからお父さんが毎日病院通いしてるって。

家族皆でお母さんを支え、絆が更に深まっていた。

お姉さんが居るから、年齢的にはウチの母とそう変わらないだろう‥

同じことが降り掛かったらと思うと、複雑な気持ちになった。

いちばん娘の晴れ姿を見たかったであろうお母さんが、その場に居られない身体の状態にある。。

何だか泣けてくる(TT)

いたたまれない気持ち‥何て神様は残酷なの‥?

と思うと、晴れ姿は元気なうちに見せてあげたいなって思うけどこればかりはご縁だからな‥

色々毎日全うして生きようと改めて思ったのだ!!!

親孝行も今までと違った形でしたいし、後悔したくないし。

先日もそれなりの大きさの地震があった。

青信号を渡っていても車が急に突っ込んで来て亡くなることがある世の中。

バス待ちをしていただけで、無差別に刺されて亡くなることがある世の中。

人生、ホントに何時何が起こるか分からない。

 

1日1日の命を全うして使い切る生き方をしたい!

って思う今日この頃。

70数年前じゃなく、この一見平和な(日々生死の戦いはしなくて良い)時代の日本に生まれた意味や価値や使命を感じる。

 

とある友人の結婚式に参列したエピーソードからの着地点が、今の日本に生まれた意味価値に繋がる辺りが最近の私の変化を感じるな~٩(๑´0`๑)۶

そんな自分が今までよりもっと好き!って言い切れる自分も好き^^

 

ではではまたblogはゆるりと更新していきます♪

ここ最近思うこと②

親切な運転手さんと別れを告げ、いよいよ会場内へ。

久し振りの新婦(大学友人)と逢うので少しドキドキしてた。

 

荷物を預け、指定された席に着席。

今か今かと主役の登場を待つ。

ドキドキ。

 

正直なところ、彼女は今日を迎えるまで本当に色々あり大変だった。←私が言うのも何だが(笑)

その“色々”詳細はさすがにこのblog内には公開出来ないが‥

だからこそ、こんな晴れ舞台をこの目に焼き付けれる喜びはひとしおだ。

 

司会の人の案内で扉がバッと開き主役2人の登場。

前方の席につくまでガン見。

ずっと凝視していた(笑)

あ~何だか身内の気分。

 

彼女との出逢いは2年生のサークルで合流してからだった。

1年生の時は、実はライフセービングサークルに入っていた。

その時からやっていたバイトが個別指導塾の講師。

夏はガッツリ「ガード」と言われる海の監視業務がメインのサークルだったから、私は個別指導塾の夏期講習とガードでてんやわんやの夏を過ごした。

真っ黒に日焼けして合間で夏期講習の講師してって当時からなかなかタフだったな(笑)

ガードってだいたい住み込みで入るので、当時はとんぼ返りして講師してました。

何だかんだでワンシーズンのライフセービング部としての活動を経験し、ちょっと折り合いつけるの難しいと判断し1年生で卒業しました。

その後、今まで運動してきてたから何か組織には属して運動は続けたい!と2年生の4月の新歓の時期に、また一からザッとサークルや部活を再チェックした結果‥

ソフトボールに決めたのでした!!

実は1年生の時にも勧誘はされ、名前は残していたようだ。

気にはなっていたのね、私。

確か現役の先輩が私のことを覚えててくれて‥親近感を覚えて入部に至ったと思うんだけどね。

でもね、ソフトボールは初心者未経験の私だったのでした。

どのタイミングで初めて認識したか忘れたけど、同じ学科の子が居て安心した記憶があるな。

今まで同じ体育学科に居ながら隣のクラスだからって全く接点なかったけど、結婚式という晴れ舞台に、言わば大学代表みたいなポジションでまさか参列する日が来るとは思わなかったわ(笑)

縁って不思議。

第一印象は?って問いかけに対する答えとすると、強いて言えば全く真逆のタイプに見えたから、とっつきにくいかもって印象だったかな?

実際まったくそんなことなかったけど。

私の第一印象も今度聞いてみよ^^

 

入部をきっかけに一緒の時間を共有するようになって、深い部分でも繋がるようになっていった。

その後色んな場面で色んな話したな~。

彼女はお父さんやお姉ちゃんの影響でずっとソフトボール一筋。

ソフトボール一家で育ったから、初心者の私にもとても分かりやすい指導を重ねてくれて私は日に日にソフトボールに打ち込むようになった。

相手に立場チェンジして物を伝えたり、教えたりってとても大切なんだな。

その立場チェンジが自由自在に行き来出来るようになったら、人間関係は更にアップグレードしていって、もっともっと相手の深い部分で繋がれる。

私は今そのトレーニング中です!

その行き来が自由自在出来るようになれば、人間関係で悩むって概念がそもそもなくなると思うな。

 

今回の②の締めくくりとして、彼女は一見クールビューティーで熱さを秘めてる人だった。

ソフトボールになるととにかく熱い。

あとね、私は1年生の時のエピーソードが今でも忘れられず鮮明に覚えているんだ。

それはね、当時栃木県の小山の実家から大学にわざわざ片道2時間掛けて通っていたのね。

何故か?たしかひとり暮らしが早急に出来ない事情があって、すぐには出来なかったの。金銭面だったか、単に東京でひとり暮らしさせるのが心配だったか。

だけどやはり片道2時間の往復は考えただけで辛い・・・1時限目の授業の日なんてけっこうキツいよね。。

最寄り駅から実家までたしか結構あったし‥6時30分には家を出る感じよね(T_T)

そしたら起きるの何時よ!?

ってな訳で、彼女はひとり暮らしをしたいと決意してお父さんを納得させるのに、1年間懸命にバイトでコツコツ貯めたお金を見せて、これでひとり暮らしさせて下さいって示したのよ!!

なんていう真面目さ。

ただ単に「ひとり暮らしさせて下さい。」って口だけではなく、「これだけ貯めたからもう大丈夫だよ。ひとり暮らしさせて下さい!」じゃあ重みが違うよ。

並大抵のことではない。

だってバイト後もまた実家に帰るのだから。

新宿がバイト場で小山って始発新宿からずっと乗ってれば良い電車が多く、座れるから余りに疲れて死んだように寝てて、本当に死んでるんじゃないか?って心配されて駅員に声を掛けられたってエピーソードも忘れない(笑)

目標が明確になったらコイツは無敵だ。

どこにそんな熱量を秘めてるんだってくらい、見た目は華奢で線が細くて私とは対照的だけど(笑)

その真摯なエピーソードに胸打たれ、ますます彼女のギャップにどっぷり浸かっていったとさ。

 

続きは次回。

ここ最近思うこと①

つい先日まで10連休でしたね!!

どのように過ごされましたか?

私は仕事時々結婚式時々休みみたいな過ごし方でしたφ(..)

10連休中けっこう移動しましたが、幸い混み混みの新幹線に乗ることもなく快適な移動でした(*^^*)

 

さて、5月4日(土)に冒頭でも書いた結婚式に参列してきました。

場所は宇都宮まで。

久し振りにプライベートで新幹線乗ったので何だか新鮮でした♬

大宮から乗ったから正味30分位の乗車だったけど、幸い自由席にも座れて何だか遠足気分だったな。

大学時代の友人の式なので、大宮から合流した子も久し振りの再会。

もうお子さんも居て、それぞれ学生時代とは違う環境で日々生きているのだと再認識。

 

車内で交流しながらあっという間に宇都宮着!!

 

式場までの移動はタクシーないしバス必須だったので、目的地に行くバスの停留所前でバス待ち。

事前に調べた時刻表通り来たバスに乗ろうとした瞬間‥前のドアだけ開き駅前なのでそれなりの人が降り、てっきり真ん中の扉からこれから乗る人は乗れるもんだと思いきや‥前の扉が閉じて、何のアナウンスもなくバスは無情にも発車。。

「普通」って言葉はあまり好きじゃないけど、目の前に明らかによそ行きの格好した女子が3人居て、地元の人なら行き先もだいたい分かるよね?(笑)

しかもその内1人は子供同伴よ?

アナウンス一言くらいしない??

よく使うバスは名古屋とか東京とかだけど、真ん中乗りの前降りとか一方通行じゃない?宇都宮独自のルールとかいらないですよ、ホントに。。

私達の頭の中は一瞬「???」で溢れてフリーズしたけど、待ったなしの状況だったのですぐに頭を切り替えた。

 

バス停留所前に明らかにそのバス会社の職員が、蛍光緑のジャケットを着ていて目立つように待機しているので、今の一部始終の状況を説明。

平謝りのみで終わり、残念ながら誠意は一切感じなかった。。

余りにも酷い対応に、これからおめでたい席に向かうのに何だか胸くそ悪い。

あ~現象に思いっきり掴まれたけどもう後の祭りなので、タクシーをつかまえて駅前を出発。

別にタクシー代ケチった(笑)訳ではなく、発車時刻に間に合うのでバスで行く段取りにしただけなのに‥

 

たまたま乗り込んだタクシーの運転手さんに思わず経緯を説明し嘆く(T_T)

私も仕事柄、地方と呼ばれる場所にも出張で行くけど、閉塞的コミュニティの中で生き続けていると感覚が鈍るのかな?

って印象。

何だか変わった人とかもいらっしゃったり、やたら明らかに年下の私にスゴい横柄な態度を取ってきたり。

まあ、ごく稀にいらっしゃる。

東京に住むとか住む場所やどこに拠点を置くかは自由だけど、揉まれる機会が少ないのかな?

いわゆる殿様商売になりがちなのかな‥?

工夫することをいつしか怠ってしまうのかな‥??

 

人ってやはり、居心地の良いトコに居続けちゃうと感覚が麻痺るのかな?

例えるとまるで「ゆでガエル」状態。

最初は心地よい温度に浸かってるんだけど、実は段々温度が上がっていて気付くと致死温度に達していて死んじゃうって例え。

悲しい末路‥

やはり常日頃、「問題意識」を持ち続けることって大切なんだな。

私は常に意識している。

それは、自分がゆでガエル状態になりたくないのもあるけど、人生そっちのが楽しくない?

 

私達を駅前で置いていったバスの運転手さんは、果たして本質的に幸せなのかな?

と余計なことを考えつつ、優しい親切なタクシーの運転手さんと交流出来て救われた。

あっという間に式場着。

 

続きは次回。